天井桟敷「星の王子さま」と「少女革命ウテナ」(つづき)
前回のエントリーでは寺山修司「星の王子さま」について書きました。今回は少女革命ウテナへの影響について考えてみます。(両作品のネタバレ含みます)
少女革命ウテナと天井桟敷「星の王子さま」
幾原監督は寺山修司が好きだったと語っています。そして一番キッチュでカッコイイと思うのは舞台だと述べています(2000,武蔵野美術No.115「攪乱、横断、ボーダレス、揺らぐセクシャリティ 幾原邦彦+小谷真理」)。
少女革命ウテナは、天井桟敷「星の王子さま」(1968年)から29年後の1997年の作品です。年代的な開きがありますが、星の王子様へのオマージュ的な要素もあるのではないかと考えています。
たとえば最終回で鳳暁生の虚構世界が崩壊するシーンは、ウワバミのホテルが崩壊する場面を思いだしますし、ディオスの星は「星の王子さま」の星のようです。そして寺山が語る「大人になった王子様」は「世界の果て=鳳暁生」を思い出します。(幾原監督によると世界の果てというネーミングは「レミング」から来ているそうです)
テーマも共通する部分があると思います。寺山修司は大人になった星の王子様はどうなるか。少女革命ウテナでは人は幼年時代の強さと気高さを大人になっても失わないでいられるか。
サン=テグジュペリの考え方
サン=テグジュペリの物語は、大人になると人が失ってしまう「子供の心」の回復を訴えるものでした。主人公は少年の頃に「ゾウを飲み込んだヘビ」の絵を描きますが、外側だけしかみない大人に真意を理解してもらえず、画家への夢は閉ざされます。心で見ることの大切さが語られました。
寺山修司の考え方
これに対して寺山は、大人になった王子様は普通の大人になると考え、サン=テグジュペリの童話の世界に逃避する大人を揶揄するような戯曲を描きました。
戯曲のラスト。虚構が崩壊して汚い現実だけが残ったと嘆くウワバミに、点子はきれいなものは現実にもあると言います。人生を上手く生きられない人々に、虚構に逃げ込むのではなく本当の星をみて現実を生きようと言います。
この点子のセリフは、アンシーを解放した天上ウテナの姿が重なります。
少女革命ウテナの物語
少女革命ウテナについてここでは単純に次のように考えています。それは幼い頃に王子様と出会って気高く生きることを決心した少女が、誘惑や試練に遭いながらも気高さを失わず、ついには友人を救う話であるという解釈です。
気高い心をもっていた王子様(ディオス)は、再会したときには、理想を失って汚い大人(世界の果て)になっていました。
暁生「確かに昔の俺に似ているな。俺もかつてはそうだった。ひたむきさに価値があると思っていた。それが世界をかえる唯一のすべだとね。だがひたむきさだけでは何も変わらない。それが世界というものだ」
寺山修司のいうように、暁生は大人になって王子様を捨てたのです。
最終章でウテナは、暁生に愛されるお姫様でいるか、アンシーとの友情を取るかの選択を迫られ、後者を選びます。そして暁生に決闘で敗れますが、アンシーの内面を革命します。それはアンシーの内面の男性像を変化させて、彼女を支配から解放したなどと言われます。
「やっぱり僕は王子様になれないんだな。ごめん姫宮。王子様ごっこになっちゃって。ごめんね」
確かに彼女は力ではアンシーを守れなかったのでしょう。しかし「力」を手に入れられなかった代わりに、王子様のような「気高さ」は失わなかったのだと思います。
この「力」と「気高さ」の相反する関係は、Blu-rayBOXのブックレット#2に初期の設定案としてヒントがのっています。かつて王子様は、塔の頂上にたどりついたとき「このまま気高く美しく、無力な王子様でいつづけるか」あるいは「醜さを受け入れ絶対の力をもつ大人になるか」の究極の選択をせまられたようです。そこで彼は、自分を○○と○○の2つに分け、いつか眠りから覚まさせる者が現れると信じて○○の自分を眠らせたそうです。(重大なネタバレのため伏字にしておきます)おそらくウテナは王子様の逆に、「力」ではなく「気高さ」を手に入れたのでしょう。
人は成長すると王子様を捨てるのでしょう。それは力を得るための代償なのかもしれません。そして現代では幻想の中にしか王子様の居場所はないのかもしれません。
しかし「見えるもの」を「見た」あとに、さらに「見えないもの見る」ことに挑戦したのが天上ウテナだったと思います。この点において少女革命ウテナは、寺山演劇のテーマの先の答えを提示していると思うのです。
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