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幾原邦彦作品等について語るブログ

寺山脚本映画 『無頼漢』 革命の時代の遊び人にシビれる

先週の土曜日から渋谷のシネクイントで「寺山修司◎映像詩展」が開催されています。没後30周年になる寺山の映像作品を28本上映するイベントです。豪華ゲストのトークショーもあり自分も時間を調整して通っています。

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個人的寺山映画体験

寺山映画を初めて見たのは15年前、ウテナを通じて寺山修司を知った頃でした。レンタルショップで借りてきて観ていました。そのころは「実験映画集」や「田園に死す」等の少し難解な作品が好きでしたが、今回は「無頼漢」「上海異人娼館」などがいい感じです。昔より「詩人」としての寺山の文学的な部分に惹かれるようになったせいでしょうか。

こういった嗜好は年齢や時代と共に変わるので、10年後にはまた変化するのでしょう。どうやら年齢を重ねても寺山作品の魅力が色褪せるということはないようです。一度その魔力にとりつかれてしまうと、ずっと抜け出せないのかもしれません。実際来場者の年齢層は大学生くらいの若者から寺山と同世代の70~80歳くらいの方まで広範囲に渡っていました。

無頼漢(1970)

監督 篠田正浩 脚本 寺山修司

出演 仲代達矢,岩下志麻,小沢昭一,丹波哲郎

映画パンフレット 「無頼漢」 出演 仲代達矢/岩下志麻/小沢昭一/丹波哲郎/渡辺文雄

今回観たなかで驚くほど面白かったのがコレです。寺山の脚本提供した時代劇です。こんな映画ばかりだったら日本映画も見まくるのに。

水野忠邦の天保の改革により質素倹約が奨励され、町人文化や娯楽が禁圧された時代。「いくら理想を振りかざしても所詮は権力の御改革」江戸の市民の不満は高まり、ついには番所詰所に火をかけ狂乱の暴動を起こします。

主人公の直次郎(仲代達矢)とその妻になる三千歳(岩下志麻)、母親の3人でのドタバタが良かったです。寺山作品でおなじみの母と息子の闘争劇なのですが、シリアスな感じではなくコメディタッチで良いのです。

直次郎は美人花魁の三千歳と一緒になりたいのですが、母親がそれを許しません。

「おっ母さん許さないからね、そんなことしたらお前を片輪者になるまでぶったたいてやる。おまえにゃあたしがついてるんだ」「うるせえや、クソ婆め!」

直次郎はついにキレて母親を布団で簀巻きにして川に放り込みます。しかし偶然通りがかった三千歳が母親を助け、母親も彼女を嫁として認めます。無事に結ばれる二人。しかしその後も新婚夫婦に割って入ってくる母親に、ついには夫婦はキレて再び捨てに行きます。

「親不孝者!今度はどこに捨てる気だえ?」「川はやめた。川じゃかわいそうだからな」「どこへ捨てたってあたしは必ず帰ってやるよ」「そうすりゃまた捨てにいくさ」

最初はお高いのにデレる三千歳が愛らしく、役者を目指す遊び人・直次郎もカッコよかったです。

 3人がドタバタを繰り広げている反面、物語はシリアスさを増してドラマは一揆に向けて緊張感が高まっていきます。暴動に殉じる河内山(丹波哲郎)と、水野越前が劇的で美しかったです。しかし結局生き残るのはノンポリの悪漢森田屋と遊び人の直次郎というところがアイロニーが効いていてシビれました。

暴動と離れたところで、直次郎の一家は享楽的に生きており、またそれが幸せそうで良いのです。「一揆で権力は倒せない。権力はただ交代するだけ」という水野越前のセリフではありませんが、革命では結局世の中は変わらないというのが、この時代の寺山の考え方だったのかもしれません。 

寺山はこの作品について次のように記しています。

この台本は 河竹黙阿弥『天衣紛上野初花』 をもとにして、天保の権力政治と現代とのコレスポンダンスにおいて描いた戯画的なものであり、1970年安保条約改定の時期に篠田正浩の手で映画化され東宝系で封切られた。当時禁圧にさらされていた洒落本、歌舞伎、花火などの町人芸術は、現代のアンダーグラウンド・アートによく似た時代感情を内包しており、その反抗は解放を目指すものであった。(思潮社寺山修司の戯曲4」,1984)

 歌舞伎に対する知識があればもっと楽しめそうです。原作の『天衣紛上野初花』も観てみたいと思いました。

J・A・シーザー×幾原邦彦トークショー迫る

これまで見たのは 「草迷宮」「上海異人娼館」「無頼漢」の3本。18日は「田園に死す」の後にJ・A・シーザーと幾原監督のトークショーがあります。この二人が寺山修司を語るなんて夢のようです。どんなお話しになるのか楽しみです。