101%メモ

幾原邦彦作品等について語るブログ

ピングドラム読書2013(宮沢賢治)

先日の「mata-web.com」の幾原監督インタビューを読んで以来、宮沢賢治が気になってます。 

そのためピングドラム関連の読書を再開しています。このブログではあまりピングドラムについて書いてないので、自分が考えなどを記しておきます。賢治に関しては語りつくされており、いまさらの感もありますが、放送開始2周年も近づき良いタイミングかと思いますので。

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まずは書籍の紹介から。

鎌田東二宮沢賢治銀河鉄道の夜』精読」岩波現代文庫

よく知られているように「銀河鉄道の夜」には第一次稿から第四次稿までのバージョンがあります。しかし現在各社から刊行されているのは第四次稿であり、ブルカニロ博士が登場する第三次稿等は収録されていません。本書ではその第一次稿から第四次稿が収録されています。それぞれの版の違いも詳細に検討されていますし、賢治の信仰と科学についてもわかりやすく解説されています。

ピングドラムファンとして気になった記述は次の部分。「銀河鉄道の夜」の終盤でカムパネルラにジョバンニが言うセリフについて。現在刊行されているものは以下のとおりです。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」(第四次稿)

しかしこの「みんなの幸のためならば」の後ろに、第一次稿の段階で「おまへのさいわいのため」という文言が存在していたそうです。(以後の稿では削除)つまり第一次稿では下記の通りでした。

「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」(第一次稿

この「おまへ」とは、もちろんジョバンニの友・カムパネルラのことである。カムパネルラの「さいはひのため」という部分が第一次稿にはあった。同じ道を行こうと心に強く誓う友の「さいはひ」のために自分のからだを百ぺん灼いてもかまわないとジョバンニは誓っているのである。これはずいぶんとなまなましい言葉であり、誓いである。というのも、「みんなの幸のため」というのは、顔の見えない抽象的な全体を意味しているため、この言葉は観念的である。それは一つの理念、イデアだ。しかし、「おまえのさいはひのために」というのは、目の前にいる相手の顔や肉体性をもったきわめて具体の言葉であり、観念的ではない。今ここの目の前にいる「おまへ」の「さいはひ」のためにからだを百ぺん灼いてもかまわないと言う。これは極め付きのエロティックな言葉である。エロスの極北を指す近いをジョバンニは口にしたのだ。(鎌田東二宮沢賢治銀河鉄道の夜』精読」p31)

現在流通しているバージョンにはない、ジョバンニの個人的な内面が描かれていたのですね。「おまへのさいはひ」という個人的なエロスの記述が削除されて、「みんなの幸い」だけが残ったことは、冠葉がはじめは「陽毬のため」と語っていたのが、最終的に変化することとの共通性を感じます。

陽毬と冠葉の幸い

当初、冠葉は「陽毬のため」に生きようとします。

たとえば12話。陽毬がこれ以上延命できなくなったとき、彼はプリクリ様にもう一度自分の命を奪ってくれという迫ります。

冠葉「もう一度、もう一度やってくれないか。陽毬の命は俺の命で贖う、それでいいはずだろう」

陽毬「無駄だ。あれは恋みたいなもの初めてのキスのようなもの、一度きりしか効かぬ」

冠葉「やってみなきゃわかんねえだろう。ほら早くやれよ」

陽毬「赤く燃える蠍の魂か。よかろう」(12話「僕たちを巡る輪」)

 あるいは18話。ゴンドラから落下させられそうになる陽毬を命を懸けて助けようとします。

陽毬「多蕗さん、お父さんの罰は私が受けます。だから冠ちゃんと晶ちゃんを許してあげてください。」

冠葉「よせやめろ。」

陽毬「ありがとう冠ちゃん、でもこれからは自分のために生きて。」

冠葉「嫌だ。そんな。俺はお前のために生きたいんだ

(18話「だから私のためにいてほしい」) 

この時の冠葉は個人的なエロスや衝動に動かされて行動しており、第一次稿のジョバンニと同じようです。

冠葉の本当の光とは

ロジャー・パルバースによると、カムパネルラは賢治の妹トシの死の隠喩だといいます。陽毬はこのカムパネルラの位置にいます。 

「陽毬のために生きたい」「お前が死んだらこの世界を許さない。この世界を焼き尽くす」と冠葉は言っていました。しかし最終回の24話では「ほんとうの光」を手にいれたといいそれまでの価値観の転換が起きています。 

晶馬 俺は 手に入れたよ ほんとうの光を

(24話「愛してる」)

この「ほんとうの光」の意味は冠葉の口からは語られていないのですが、多蕗とゆりの次のセリフに集約されているのではないかと考える人も多いようです。

 

多蕗「ゆり。やっとわかったよ。どうして僕たちが。この世界に残されたのかが」

ゆり「教えて」

多蕗「君と僕はあらかじめ失われた子供だった。でも世界中のほとんどの子供達は僕らと一緒だよ。だからたった一度でもいい誰かの『愛してる』って言葉が必要だった。」

ゆり「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、愛された子供はきっと幸せを見つけられる。私達はそれをするために世界に残されたのね」

 

つまり本当の幸いとは「たとえ自分は愛されなくても、世界中の子供たちに愛を与えていきること」。「愛し愛されて生きること」と言い換えられるかもしれません。

賢治の思想は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という、広く世界全体の救済を説くものでした。多蕗とゆりのセリフはこれと共通する人類愛的なニュアンスも感じます。

それでは、輪るピングドラムとは人類全体の救済を説く作品だったのでしょうか?

個人的にはそうではないと思います。それでは一歩間違えると「世界をピースする」ピングフォースになってしまいます。

あくまで目の前にいる「あなた」に手を差し伸べること。人類全体という大きな理想ではなく、目の前の小さな魂と愛と罰を分け合って生きることの実践を説いている作品なのだと思います。

長くなってきたので分割します。(つづく)