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幾原邦彦作品等について語るブログ

ユリ熊嵐(アニメ)第1話感想

ついに放映が始まった幾原監督の新作アニメ「ユリ熊嵐」!

1話を観ただけではまだ全然理解できないし、今までのイクニ作品とは勝手が違って一段と手ごわい印象。 でもこれまでに見たことのない斬新な映像で、かつてない作品になる予感がする。 幾原監督は相当な確信をもってこの作品に挑んでいるのだろうなと思った。

というのは、以前ウテナ展で限定公開されたPVと1話が大筋ではほとんど変わっていないように見えたから。 放送を見るまでは、2年間の間に構想が変化してるのではないかと考えていたのだけれど、主要キャラや裁判シーン、変身バンクなど、ほとんど変わっていない気がする。アヴェ・マリアも本番では他の曲に替わるのかと思っていたのだけれど、そのままだった。企画当初のままでブレてないのだろう。それだけ核となるコンセプトが強力なのかもしれない。

これまでの作品(ウテナやピンドラ)と作り方が違うと思ったのは、物語の導入やキャラの立て方について。 視聴者にキャラと同一化させないようにしながら、淡々と出来事を追っているようにみえた。 これまでであれば、もう少しわかりやすくキャラを立てていたと思うし、SF的な突飛な世界観については、視聴者と同じ常識や視点を持っている人物にツッコミを入れさせる等をしてスムーズに視聴者を作品世界に招き入れていたと思うのだけど、そういう存在がいない。紅羽と銀子も視聴者とは違う常識の世界に疑問を持たないで生きているため、視聴者とは距離のある存在になっている気がする。

ストーリー作りの教科書にでてくるような、「視聴者が感情移入できるようにしよう」とか「キャラクタの使命(動機)を明確にしましょう」等のセオリーを意図的に外しているような気がして、よくある物語展開には絶対にしないという幾原監督の強い意志のようなものを感じた。12話と短いシリーズのせいかもしれないけれど、判りやすさを棄てて、その代わりにエッジの立った濃度の高い作品になっている気がする。

以下では思いついたポイントなどを適当に書く。

ユリの花の咲く花壇について

泉乃純花がユリを育てていた花壇。嵐が丘学園の中でも重要な場所のようだけど、後ろにある建造物はなんなんだろう。あの扉を開くとどこに通じてるのか。

なんとなく連想したのが映画「マルサの女2」の終盤で鬼沢が立てこもった大きなお墓。嵐が丘学園ってネーミングや幾原監督が幽霊譚が好きと言っていたことを考えると、現世と彼岸を分ける扉なのかなと思ったり。泉乃純花って泉鏡花にちょっと名前が似ているし。

アヴェマリアの変身バンク

ユリ裁判のシーンは、用語がわからないせいかあまり頭に入ってこないのだけれど、ユリ承認の変身シーンは本当に美しかった。PVで見た時に感動して涙が出てしまったのもこのシーン。ウテナ展の時はまだピングドラムから1年くらいしか経っていなかったのでピングドラムとの連続で受け止めてしまったせいもあったのだけど。

思うにピンドラは、贖罪と自罰の意識に囚われた兄妹の物語で、彼らは好きな子がいても、自分のモノにすればその子を不幸にすると考えて自分のモノにできない状態に陥っていたように思う。その一方で銀子とるるは「好きになった子は罪でも食べたい」というクマの子。両者はとても対照的だ。PVを観たときは、自罰的な子供たちの物語の後にこういう欲求に忠実で祝福されたクマの子達の映像だったので涙のダムが決壊してしまった。

ユリ承認のシーンは、聖母マリア的な愛と祝福に包まれて罪クマの罪が赦されるように見えて、本当に美しいと思った。 ピンドラが愛の不在を描くことで結果的に「愛」を浮き彫りにしたのに対して、ユリ承認のシーンでは愛が直接的に与えられて承認される歓びに溢れている。

クマが可愛い

2頭身クマの銀子とるるが想像以上に可愛いかった。ピンドラのペンギンやウテナのチュチュに匹敵する。その反動で人を食べてるときは気味が悪くて居心地の悪いような変な気分になるのだけれど。

この先、紅羽と銀子&るるの気持ちが通じ合って愛し合うようになった場合、銀子&るるは紅羽を食べたいと言い出すのだろう。しかしその場合に紅羽はどういう反応をとるのか。宮澤賢治の「なめとこ山の熊」のように、自分の身体を食べていいよと差し出す展開もあるのだろうか。でもそれだとピングドラムの続きっぽい感じになるな。

3人のラブラブな展開は楽しみではあるんだけど、人間が喰われる話であることを考えると嫌な気分になって、先が楽しみなような見たくないような引き裂かれた気分になる。でもそれがこの作品の独自性なのかな。